校長「秋山好古」

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俄かに光る北予中学

北予中学校

大正13年4月秋山好古大将は校長に就任し、北予中学は俄に光ることとなった。これ実に教育界に一光彩を放つもので、東京の各新聞までが、武勲に輝ける陸軍大将を校長に有つ日本唯一の私立中学であると驚きの目を瞠ったものである。生徒や父兄が恐悦を極めたことはいうまでもない。

井上要

これより先き松山高等商業学校はいよいよ創立され、加藤彰廉君がその校長となった。元来この高商は北中との宿縁誠に深い姉妹校である。両校ともその関係者は殆ど一体であるばかりでなく、互に地を隣りし、軒を並べてその間には形の上にも心の底にも更に溝渠障壁を設けざる程の間柄である。故に私共は彰廉君は当然両校長を兼ねるものと信じたところ大正12年校商の開校するに及んで、彰廉君は忽ち北中の校長辞任を要求した。その理由としては両校の責任を持つは老体の到底堪えざる処であると云うにあり、私共には誠に肯定し難い理由にして合点がゆかぬけれども彰廉君が云い出した以上後には引かぬのをどうすることも出来ない。

彰廉君は人一倍責任感の強い人である。私をしていわしむれば、極めて融通性と調和性を欠く頑固偏屈の人である。しかしこの性質が君の最も尊敬すべき長所であるかも知れぬ。既に辞任を決心せる以上いやでも応でも仕方がない故に理事会は強制的にその意に従わなければならなかった。然らばその後任を何人に求むべきか、理事会の議は時恰も秋山大将が停年退職の折柄なるを以て之に懇請することに一致したが、有力者の中には陛下の大将、国家の重臣なる閣下に対し、地方官監督下に立つ田舎の一中学の校長たらんことを懇請するは甚しい非礼である、閣下は断じて之を許さぬであろうと遠慮するものも少なくなかった。

けれども私は信ずる処あり、理事会の使命を帯て、東京四谷の大将邸に至り、赤裸々に事情を告白して校長の就任を求めたところ大将の答えは極めて簡単である。

秋山好古校長

「俺は中学の事は何も知らんが外に人がなければ校長の名前は出してもよい、日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える、それはいかん、俺でも役に立てば何でも奉公するよ」

といわれた。沈黙を破れる寡言の雄将の言葉は極めて要領を得たる教訓ではないか、私は非常に喜んで

「どうか当分でも校長の名をお貸し下さい、そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい。」

と応答僅かに10分、私は見事に金的を射落し使命を果たして鼻高々と帰松、之を報告したのである。次で新学年に入るや大将は親友新田長次郎氏と相携えて期を違へず中学に登校したのである。

大将の軍事に於ける功業、戦役に於ける勲業は今更云うまでもなく歴史の示す処である。また文壇の名家山中峯太郎氏の書いた「事実小説大将秋山好古」は昨年中雑誌「現代」に連載し、なお近くは一冊となって出版せらるる筈であって、殆ど大将の全貌を窺うことが出来る。けれども大将の晩年その全精力を傾倒した北予中学校長としての生活と、郷里松山の旧宅に隠棲、帰養した大将老後の面目に就てはまだ誰も書いたものはない。私は平生頗る之を遺憾としているものである。よってその一斑を記録して自ら警むると同時に、心ある人のためにも教訓の一助としたいと思う。

秋山好古の手紙秋山好古の手紙

御書面拝誦
厳寒の候各位益々御清廉の段奉慶賀候
扨北豫中学校長後任の件に付御申越の趣了承小生は老体其任に堪へずと存候得共適当の後任者を得る迄当分の内就任候事は承諾仕候間可然御取図相願候何れ二月十五日頃帰松の心組に候間御承知置相願候
貴酬迄早々
   一月二十九日     好古
 井上要様
 石原操様
 長井正光様
 村上半太郎様

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無言の教、無為の化

「当分の間時々学校へ来て生徒と遊んで下さい」

「中学のことは何も知らんが校長の名前は出すよ」

唯これだけの簡単なる条件で就任せる秋山大将の校長先生時代は大正13年より昭和5年まで実に6年の長きに及んだ。然るにこの校長先生は未だ会て一日も休んだことはない、そうして毎日の勤務時間は10分と遅れたことなく出勤するので、後には校長の通う沿道には、その登校せる姿を見て時間を知り、我家の狂い易き時計の針を正すと云われるほど精確なものであった。今の湊町大野警吾君の祖父洞吉翁は、数十年間一定の時間に必ず松山道後間を徒歩往来して少しも違うことがなかったので、沿道の農家は翁を見て時計の代用にしたという有名の話もあるが、この校長も正に洞吉翁と好一対の時間励行家であり、時間尊重家であった。

各学校の卒業式には生徒を奨励するため、勤隋を考査して精勤証書若くは皆勤証書を授典するを例とする。然るにさも勿体らしくこの証書を授与する先生には随分懶けものがないでもない。然るに北中の校長先生に限って、実に躬行実践自ら無言の範を示すものがあった、即ちこの校長先生こそ皆勤証書を受くべき超満点の資格者である。

校長先生の眼底には耽々として人を射る光が潜んで居る、けれども先生が怒った顔は誰も見たものはあるまい、そうして叱られた生徒は一人もない。毎日毎年変りなき慈眼温容、始終ニコニコと笑みを浮べ、校内や教室を見廻って居る。時々は実験実話を交えた暖い訓話がある、それは勿論訥弁であるが生徒はこの上もなき楽みとして之を謹聴した。学校に於けるこの校長先生は誠に親むべき好々爺であった。

北中の校長室は誠に狭隘にして東南に日光の直射を受け、殊に夏になっては暑いこと夥しい。しかも冬も亦頗る寒い部屋である。然るに秋山先生は未だ会て一言も「暑い」と言い「寒い」とこぼしたことはない。何時でも儀容端然として洋服のボタン一つさえ外れたのを見たものはないほどであった。

先生の校長となってより間もなく、すべての先生職員も急に勉強家となって欠勤するものなく、生徒もまた欠課休学を為すものが著しく減じたことは爭うべからざる事実であった。従って授業料の如きも遅納滞納なく大いに事務員を喜ばせることとなった。

中学生は少年の発育最も旺盛なるときとて、元気溌剌動もすれば随分乱暴ものもある有様である。従って机を壊したり窓硝子を破ったりするものも少くない。北中が不良少年養成所なりと嘲りを受けたのは遠き昔のことであって今は風紀頗る粛正となった、とは云え意気天に冲するの勢ある青少年に多少の粗暴あるは免れざる処である。秋山先生校長となって後、或る夏休み中事務員に命じて校内を修理せしめ破れた窓、壊れた机を繕ったが、その時生徒を集め唯一言「物がこわれてはお互に困るから注意せよ」と警められたことがある。以来生徒は大に建物及び器物の使用に注意することとなり破損するものなきに至ったこともまた事実である。

校長先生の感化は独り校内のみに止まらず、一般の社交界にもかなり刺激を与えたものである。時間励行は世人の常に唱うる処であるが、何処でも中々に実行せられて居ない。松山時間と云えば言行不一致の標語となって居るほどである。それに校長先生の関する会合は、殆ど分秒を違えず自ら出席せられたので、後には人々相伝え相警めて之に倣い、風習一新、積弊打開の一助となったなどはその一例である。無言の教訓、無為の感化は誠に大きいと言わねばならぬ。

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超教育家の識見

大正14年4月10日に至り、北予中学会専務理事秋山好古の名によって、第二期基本金15万円を募集することとし、之を発表した。然るにその後財界は追々険悪に傾いたので、今は其時機にあらざるを認め、学会自ら之を撤回して、既に寄附の意を通じたるものには之を見合せんことを求め、募集は之を中止した。

然るにこの募集理由書は、秋山校長先生自ら筆を取って起草したもので、実に先生の教育に対する大見識と、私学に対する徹底的の大抱負を明にしたものである。固より世間一様の歓募理由書と同一視すべきものでない。私共も引き切りなしに舞い込む寄付勧誘の理由書は殆ど之を精しく読んだことはない。また寄附か――ぐらいに考えて多くは反古籠に投げ込んでしまう、もし多くの人々がこの理由書をも世間並みの平凡なるものと見て碌々読むこともなく軽々に之を看過したとすれば、それは誠に遺憾である。假令一厘の寄附をなさざる人と雖も、是非一読して頂きたいものは此理由書である。

この理由書は頗る長い、その内で二三の骨子を摘記すれば左の文句がある。

既往に於て吾国は官権官学の力極めて強大にして官私の区別甚しかりしも今日は官民等の区別を為すべきにあらずして国民一団となり時々相交送して国政、県政、市町村政を行うに至れるなり、従て教育に関しても官私の区別は漸時薄弱となるに至らん。之を概観するに我国に於ける中学以上の教育は自家の安定を顧みずして教育に依り将来の生活を求めんとするもの多く欧米国民は自家生活の安定を確立したる後能く資力能力体力を精密に考慮し高上せる教育に依り自己の生活並に品位の向上を計り更に進んで国家社会の公益に力を尽すもの多し。

これ実に通常教育の言い得ざる処である。官尊民卑の流弊を革新し、教育に及ぶべきを看破し、中等以上の教育を受くるものの徒らにパンを求め、給料を目的とするの非なることを戒め、高等教育を目指すものは資力、体力を考慮せざるべからざるを説き、自己生活の向上のみならず、品位の向上を期して力を公益に尽すべしと論じ、之を欧米の美風なりとして暗にわが国民に警告しているのは先生の深き用意のある処を窺い知ることが出来る。

中等程度以上の学校は元来義務に属するものにあらずして志願により多くは中産階級以上の子弟の入学するものなれば国民全般の負担に属する国費を以て悉く之を支弁せんとするは事情の許さざるものあるを以てなり。

先生は、その前文に於てわが国も義務教育年限を延長して、その教育を充実普及せしめ、普通選挙を実施し、国民全般をして国政に参与せしむることとなるべきを以て普通教育の費用は大に増加すべきことを説いている。この時未だ普通選挙は行われて居ない。然るに先生の卓見は早くも大勢の帰向を察し、之に応じて教育の機構に考慮を加えざるべからざることを明にして居るではないか。これだけの見識を持つものは蓋し当時の政治家にも少なかったであろう、况して教育家に果してこの識見ありや、正にこれ超教育家の識見ではあるまいか。

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徹底せる私学観

秋山先生は更に英国に於けるイートン、ハロー等の中学の如き、何れも私立にしてその設備は完備し、良教師多く、校風大に振起して、英国の名士はこの両中学より出るもの多く、殆ど英国の文化、否世界の文明をこの両校生徒に於て負担するの気概ある実例を示し更に我国の時弊を剴切に指示して曰く

現時我国に於ける官吏軍人等は其退職するや僅少の恩給に依りて生活し無為徒食に陥るもの多し、欧米国民は概してかかる生活を忌み假令大臣其他の重職にあり資産に余裕あるものと雖も一朝職を退けば弁護士となり新聞記者となり会社員となり(中略)職業に貴賎なしとの観念を以て其豊富なる智嚢を各方面に進展せしむ(中略)特に私立の中学校等にありては甞て大臣たりしもの大学総長若くは教授たりしもの其他知名の人士にして閑職にあるものは皆喜んで貴重なる教職に従事す、是れ私立学校に優良なる教師の極めて多き所以なり。

何と痛快なる至言ではないか、私学にして良教師あり、良教師ありて良学校あり、現に秋山校長先生はその実証である。私学の特長と真面目は固より斯くあらねばならぬ、これ明かに私学の指針を示すものではあるまいか。而して恩給殺人、恩給亡国を諷刺する点に於て最も適切である。この人にしてこの言、特に権威あるを知らねばならぬ。校長は更に曰く

本校が独立不覊の精神と堅忍不抜の気風を養い秩序節制を尊重し自由を貴び責任を重んじ高尚なる人格を有する活動的青年を養成せんとするには本校自ら経済の独立を計るを要す。

これ実に本校の主養校訓であるばかりでなく、真に青年の指導の原理である。元来先生は他の軍人若くは教育家の官学万能説に反し、教育に就ては始めより独自の主義と信念を有し、殊に徹底的の私学観を包蔵したるものにて、その鋒鋩の一端をたまたまこの理由書に露はしたものであろう。而して躬を以て之を実行し、終始変ることなかりしは、流石に先生にあらざれば誰も出来ぬところである。

先生が北中を賛助し、その県立移管を排斥したのもこれが為めである。その権威ある位置を以て、一中学の校長に甘じたるも之が為めである。しかのみならず先生自身の長男次男とも特に私学慶應大学に入学せしめ、官学帝大に入学せしめなかったのもまた蓋しこの信念を実行したものであろう。主義一貫、言行一致、実に大将先生たる所以である。

私は初めは北中を以て県中の振い落しを拾う処と考え、中頃県立と対立の学校としたいと考え、後には終に官学以外に私学の特色を発揮して、より良き学校としたいと考え、且つ之を為し得るものと考うるに至ったものであって思想と希望、信念と期待は幾度か動揺し今更ながら自ら心境の変化を来したるを恥て、之を告白するものである。

私は秋山先生のこの理由書に心から敬服し、記念として保存したいと思い立ち、校長自筆の原稿を窃に盗み出さんことを企てた。校長の自筆の原稿は書記の手に移し浄書の上、外に出す例である。依って内々書記に頼んでこの原稿を捜索したが見当らぬ、漸く見当ったものは募集取消の原稿である、それでも校長自筆のものであるから、校長には極秘で、私は之を横領し、今尚大切に保管して居ることを、ここに白状して今は亡き校長にお詫びする

秋山好古の原稿
秋山好古の直筆原稿

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秋山校長の辞職するまで

「当分の間」である筈であった秋山校長先生の在職は、二年となり、三年四年となって、校長と生徒は益々親密となり、社会の信頼はいよいよ厚きを加え、渾然融和して動かすべがらざるものとなった。校長先生は私に対して、しばしば「もうやめてもよかろう早く後任を定めてくれ」と辞意を漏されたが、私はその度毎に「何時でもお止め下さい後任は是非とも御選定を願います」と答えていた此の偉大なる校長の後を受け、その感化と遺業を傷つける跡目相続人を極めること固より容易なことではない、私共の苦心は実にこの点にあるからである。

校長先生は毎年の夏休みには必ず北海道に行って、新田氏の農場牧場を視察する例である。之が又例の規則正しき性行であるから、一年も欠がしたことはない、在る年の夏期休暇中、北中の二三の不良生徒あり、警察の訊問をうけたことがある、校長先生はこの報を聞いて大いに驚き、直に旅行の途中より引返して生徒に対しては、それぞれの処置を完了した、そうして斯る事件を惹起せしは全く校長の責任であるとて私の手許に辞表を提出せられた。困ったのは私である、事件は僅に二三生徒の品行問題に過ぎず、何れの学校にも常にあることで、特に校長の引責を要する程のことではない、故に私ども理事一同は極力留任を求めたが、校長先生頗る強硬である。終に市村知事等元来校長を監督すべき人々までが、打揃うて低頭平身偏に辞表の撤回を懇望し、漸く留任の承諾を得ることとなった。

辞職願
秋山好古の辞職願

校長先生がいよいよ古希を迎えられたる年の新年「俺ももう七十になったから校長を止めたい」と云われた一言が偶然新聞には「秋山北中校長いよいよ辞任す」と摘発せられたため、生徒や父兄は大に心配して世間に於てもまた一大問題となった。依って私は三月の卒業式に臨み、出し抜けに演壇に立ち「諸君は秋山校長先生が止めらるると云うて大いに心配して居るそうであるが校長先生は非常に責任を重んずる人である、先生に代るべき立派な後任のない以上断じて諸君を見捨てることはない、諸君安心せよ」と演説した。式場を退くと校長先生は私を捕え「君がアンナ演説をすると当分は罷められぬ」と一笑せられ、そのままとなったこともある。

去りながら校長先生も寄る年波には勝てぬ、年と共に辞意漸く切なるものもあるが折柄その頃陸軍大臣であった白川義則大将は頻に校長先生の健康を気遣い、その上留任を求むるは一種の老人虐待であると、度々私に忠告せられた。白川大将の校長先生に於けるよしみは師弟の如く、情は父子に似ていた。白川大将は全く校長先生の薫育教化を受けて、身を立てたるものなれば、校長先生を思い、之に尽すこと殊に切実を極むるものあり、昭和四年に至り偶鳥谷中将退職して松山に帰任せらるることとなったので、校長先生は白川大将と共にその後任に推薦せらるることとなった。茲に至っては私共は最早この校長先生の退職を認めぬわけにはゆかぬ、則ち昭和五年三月より鳥谷中将はその後任となり、最も惜むべき大将先生を北中の校門より送らざるを得ざるることとなった。

白川大将の手紙
白川大将の手紙

かくて秋山校長先生時代の幕は下りたが、その在職は足掛七年に及んで、校長先生の為には、これが国家に対する最後の御奉公となり、郷里に対する最大奉仕となると同時に、学校のためには空前の教化を敷いて、永くその規範を残すこととなったのである。

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松山に於ける私人秋山翁

軍服を脱ぎ、勲章を収めて故郷に帰り、静かに松山南歩行町の旧邸に入った私人秋山翁は誠に優しい好々爺であり、老隠居であった、翁のためには、この旧邸こそ祖先伝来の城郭にして、家弟真之(海軍中将)と共に呱々の聲を揚げた処である。既に町名を歩行という、昔は歩行即ち歩兵である。従って階級制度の厳重なる当事に於ては、今の将官ともいうべき上流の士の住むべき処でない、この一事でも翁の家も上士の部でなく中士以下の列であったものと思われる。家は誠に質素なる藁屋根で僅に数室あるに過ぎぬ、元は道に面して粗雑な竹垣があったが翁帰住の後、新田長次郎が強いて勤めて、コンクリートの垣を作り、之に代えたので頗る堅固なものとなったけれども洋服の上衣に和服の袴を着けたように、家と垣とは極めて調和を欠き他日若し史蹟として両将軍の宅趾を保存するものとせば何となく不調和を免れざるものとなった。私は此茅屋に応はしき竹垣のなくなったのを深く惜まざるを得ない、私は之を以て大将と新田君の最も大なる失策なりと常に大将に言っていた。

翁は家庭の事情により令閏始め家族一同を東京に残し、同邸に帰っては僅に親族の援助によりて炊爨を弁じ、全く孤独の生活を送られたのである。外出のときの外は常に一室にあって端然書籍に親み、春夏の節、夕刻となれば必ず後庭に出て露天の下、粗末な籐椅子に倚って前に城山を望みながら独酌一本、独善として自ら楽んだもので、他に何の趣味も道楽もないのが翁の生活であった。而して室内屋外ともに素朴簡易を極め、一の装備を加うる処なく、全然軍隊式の起居、禅坊主の生活に異ならぬ、私は屡々翁に対し「御不自由ではありませんか、私共は年を取ってから妻が居ないときは先づ衣食に不便を感じて閉口します。奥様をお呼びになっては如何です」と勧めた。すると「なに慣れて居るから独りで不自由はない」と答え、平然として少しも介意する処はなかった。

翁に取りて唯一の趣味は囲碁であるが、それが頗る下手の横好きであった。私も碁は誠に弱い、之を譬えば高等小学卒業位の程度である。それに翁は更に弱く私に二目位で、逢う度毎に「井上君一つ打とう」と云い出すものは必ず翁であって、盛に鳥鷺を戦わし同好相楽しんだものである。

翁に対し何人も常に関心せしはその健康である。何と言っても高齢である。加うるに翁は痼疾として脚部に神経痛を患い少々ビッコとなられて居た位である。然るに校長先生の職務には余りに恪勤精励を極めたるを以て、これがためその病勢の増進することなきや、その健康の衰退することなきやは何れも気遣った処である。然るに翁は学校の帰途必ず道後の温泉に入浴し、一日も欠ぐる処なく、極めて規則正しき年月を送られたのである。霊泉果して効験ありしか翁の病気は、年と共に次第に癒えてその健康少しも変る処なきを得たのは誠に喜ばしい限りであった。

かくの如く端正謹厳そのものの権化の如き翁にも、その青年時代には必ずしも艶聞なきにあらず、翁の壮時永く仏国に駐在せるとき今のファッションの本家と呼ばるる枢密院議長平沼男もまた同国に在って、交情誠に親密であった。その頃翁は大いにパリ美人に恋慕せられ、無遠慮なる彼女は盛に翁を追い廻し、翁は一生懸命に之を逃げ廻ったことがある、翁の顔は自ら「あんこう」と云う魚に似て居るという程日本的には固より美男子とは言えぬ。それでもパリ美人はこの男らしき日本男子に強く懸想し、千軍萬馬を号令し、唯進むを知って退くを知らぬこの勇将も、その時ばかりは散々に逃げ歩いたことは恐らく誰も知らぬ秘聞であろう、平沼男は今でも無妻主義で徹底せる謹厳家である。而してその人がこの艶聞の証人である点に於て、珍聞特種とすべき値打があるであろう。

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