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1891年(明治24年)5月11日のロシア皇太子ニコラスが負傷した大津事件は、日本の危機管理能力のあまさもさることながら、何よりも「ロシアが日本に攻めてくる」と日本国中で大騒ぎとなります。
その騒ぎのなかの5月20日の夜、京都府庁の門前で、一人の若い女が自殺しているのが発見されます。
のどをついて自害した者まである。二十七歳の女性である。畠山勇子といい、べつに津田三蔵とつながりのある人物ではない。千葉県鴨川のひとで、事件をきくと京都へ急行し、京都府庁の前にすわり、短刀をぬき、のどを掻き切って死んだ。
『坂の上の雲』(列強)より
その日の午後6時頃、年のころ27、8歳の一人の女が、府庁の門前を人待ち顔に徘徊しており、彼女は丸髷を結っており、目立たないように薄化粧していたが、その挙動に浮ついたところがなく、どことなく物思いに沈んでいるようにも見え、気をつけて見れば、胸の中に何かおおきな悩みを抱いている風であったと目撃されています。
彼女は絹ニ子千筋の袷に、博多と繻子の合せ帯を締め、絹繭の羽織を着、白縮緬の裾除をし、白足袋を穿いていた。顔は丸顔で美人というほどでもないが、田舎の女にしては垢ぬけがしており、まるで教育のない女とも思はれぬところがあり、といって、着物の着こなし方を見れば、京の女でないことは一と目で分った。
廣瀬清著『大津事件物語』より
それから1時間ほど過ぎてから、府庁の門番所に二通の手紙が一人の人力車夫によって投げ込まれます。その一通には、「千葉県畠山勇子より露国大臣様」と書かれ、もう一通には「日本政府御旦那様」と女文字で書かれていました。門番はこの手紙を直ちに警察部に届けます。手紙を読んでみるととても文面が怪しく、差出人を調べようとしているなか、門前に一人の女が倒れているのが発見されました。
彼女は門の西側に、白布を地上に敷き、その上に坐り、死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括り、覚悟の上の自殺であったが、発見された時は、まだ息があり、顔を仰向けにして断末魔のうめき声を発していたそうです。
彼女の遺書は判読し難かったが、二通の手紙を合わせ読むと、彼女は露国皇太子が凶変のため東京を訪問されず帰国されるのをいたく嘆き悲しみ、死を以てその帰国を思い止まらせようと家をでてきたが、京都にきてみると、皇太子は既に帰国された後なので、いまはこれまでと、うら若い女の身を終に自殺し果てたものであることが解読できたそうです。
畠山勇子の名は、身命を賭して日露間の危機回避を祈願した忠臣愛国の「烈女」として、語り継がれゆきます。
「日々日々に清めて鏡うつし見よ貞操邪正その容貌にあり」
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