HOME > 女たちの「坂の上の雲」 > 山本登喜子
山本権兵衛は海軍兵学校の寄宿舎にいたとき、近くの品川青楼に新潟の漁村から売られてきたばかりの可憐な娘を、弟や同僚とと力をあわせ、脱出させる。この娘の名は登喜子といい、のちに山本夫人となります。
1878年(明治11年)11月16日に二人は結婚しますが、山本はその4ヶ月前に婚約者に誓約書を書いています。誓約書の一部がひらがなとなっているのは、教育を受けていなかった登喜子夫人への心配りです。
誓約書
一、礼儀を正ふし信義を重んじ質素を旨とすることを目的とすべき事
一、夫婦むつまじく生涯たがいにふわを生ぜざる事
一、夫婦たるの義務をやぶるにあらざればいかなる事実あるも決して離縁を許すべからず
一、家事の整頓はすべて妻の責ににんず
一、一夫一婦は国法の定むる処なれば誓て之に背ざる事
一、家財は以妻子を養育するの余沢なれば妻の外他より口を入るるを許さず
一、一家に属する事はすべて妻の責にんにまかす
右の段津沢敬蔵三女とき女と縁組いたし且は前顕堅く誓約聊も違背あるべからず因て誓約悉く相認め如件
明治11年8月15日
登喜子夫人は、海相夫人、首相夫人として社交界に出る機会はいろいろとありはしましたが、その他には派手な場所にはいっさい顔を出さず、誓約書を守り、もっぱら家庭の人として内助の功を積み、子女の教育に専念します。
夫妻の間には一男五女が生まれます。長男の清は父のあとを継いで伯爵となり、長女いね子は財部彪大将夫人、次女すえ子は山路一善中将夫人、三女みね子は満州工廠長になった山本盛正夫人、四女なみ子は上村従義男爵夫人、五女登美子は松方乙彦(松方正義の七男)夫人となります。
1933年(昭和8年)3月30日、登喜子夫人は74歳で逝去する。心の支えを失った山本権兵衛は、今まで病気らしい病気にかかったことはなかったが、突如摂護線肥大症を起して発熱し、同年12月8日、後を追うように逝去した。
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