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乃木静子

乃木静子

1859年(安政6年)11月27日、薩摩の藩士湯地定之の四女にして、鹿児島新屋敷240番地に生まれる。
幼名をお七と称し、また志知とも記す。
乃木家に嫁いで静子と改める。

母は同藩士池田氏にして天伊(テイ)。
兄姉各三人で、長兄は定基(貴族院勅撰議員)、中兄は定康(海軍大尉)、末兄は定監(海軍機関中将、貴族院勅撰議員)。長姉は早世し、次姉は馬場貞子、末姉は柴てい子、静子は最末の第七子である。

1872年(明治5年)12月2日、父母と共に東京赤坂溜池二番地長兄定基の邸に移る。初め鹿児島に在る時、同地植木氏に就いて読書並びに習字を修めるが、長兄定基がまた大いに奨励する所があり、長ずるに従い益々勉強を怠らなかった。

東京に出て後は、1874年(明治7年)より6年間、樋口深月に就いて書を学び、かつ麹町女学校で学んでその課程を修了する。 その他に琴曲、生花、点茶、裁縫、諸礼等い至るまで習得した。

乃木希典が中佐で、熊本鎮台の連隊長であった当時、しばしば母より家妻を迎えろと勧められるので、

「鹿児島の女でなければ娶らない」

と返事したことがきっかけで、静子との縁談が持ち上がった。乃木は湯地家について何も知らなかったので、知人に確認などもしたりしていたが、知人の勧めにより、建築中の小屋の落成式に静子を招待することでお見合いをする。

時の軍司令官であった野津鎮雄大将は、乃木の妻は湯治の妹に限ると自らすすんで媒酌の労をとった云う。1878年(明治11年)8月27日、静子は乃木家に嫁ぐ。希典30歳、静子18歳であった。

1879年(明治12年)8月28日に長男勝典を生み、同年の冬に、東京赤坂新坂町に邸を構い移籍する。1881年(明治14年)には次男保典を挙げ、なお一男一女を産むが二子とも生後間もなく亡くなっている。

姑である乃木希典の母は、厳格にして、礼儀を重んじ、且つ備に家計の困難を甞めたる賢婦人であったので、静子は容易ならざる苦心を要したようである。しかし、乃木希典の甥玉木正之によれば、母君は静子夫人を評し常に、

「親切な人でその親切が真に腹の底から出る様である」

と、云っていたそうである。

乃木希典が官位昇進するも、敢えて家庭の質素を改めず。伯爵夫人たるに及んでも、常に粗末なる綿服を着て、召使の如きも二人の下婢(使用人)、一人の書生を雇うのみ。下婢といえども飯炊き女に過ぎず、仲働きあるいは小間使いの類は一切これを置かず。夫人自ら厨房の事に携わり、来客あれば、必ず自ら烟草盆、茶菓の類を運びてこれを待遇し、もし食事の時刻に至れば、自ら手を下して厨膳を調え、饗応配給また決して人に任せず。元来乃木家においては、特別に案内して多数の来賓を招待する場合の外は、必ず手料理を勧める家例であった。

静子夫人は外出の時は多く電車に乗り、人力車をも雇わず。時には雨路に傘を執りて徒歩することもあり。汽車は二等車に乗り、日用の薪炭米等は、皆那須石林の別荘より取寄せて用い、金銭の収支出納は、細大となく帳簿に記入し、月末これを計算して乃木希典の検閲を受けたりした。大切な物品は基より、いかなる些末の物といえどもこれを粗略に取扱わず。

日露戦争で令息二典戦死の時、宮中及び皇族方より御下賜の菓子折(箱)、並びに乃木希典入院中、宮中より御下賜の菓子折は、最も大切にこれを保存し、その他諸方より到来の菓子折は概ね漆を塗って物入の器となし、流行品の如き衣類は勿論家具等に至るまで、一切家には置かなかった。

日頃より乃木希典は、馬を大事に扱われていて、木造建ての邸に比べると、厩(うまや)は赤煉瓦造りの立派な拵えであった。日露戦争を終え、乃木が凱旋する前夜に、某大臣が留守宅を訪れて、夫人にいかなる準備にて大将を迎えられるかと聞かれた時、夫人は

「ただ格別の仕度は無いけれど、厩ばかりは一生懸命に掃除しました」

と答えた云う。

1912年(大正元年)9月13日、先の7月30日に崩御した明治天皇の葬儀が行われた日に、夫と共に自殺。 辞世の句は、

 「出でましてかえりまし日のなしと聞く けふの御幸に遇ふぞかなしき」

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