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大阪府平民岩永秀松の七女マツ。
明治7年10月17日、熊本鎮台准官参謀児玉源太郎と結婚する。
この時、源太郎23歳、マツは19歳。
この結婚の3日後の10月19日、児玉源太郎は陸軍少佐に抜擢される。弱冠23歳にてこの抜擢を受けた年に、同時にその生涯の幸いする好運に恵まれた。
明治10年の西南戦争に於ける熊本城篭城戦では、マツは源太郎の忠告を受けて大阪に移り住んでいたので難を逃れた。
児玉源太郎は実に磊落で、また随分派手な遊びもやり、万事が賑やかな人であったが、一方夫人はというと、児玉大将と親交のある某将軍の夫人曰く、
「児玉閣下の奥様は誠に質素な方です」
と語られ、実に質素に、軍人の内助として理想的な婦人であったと云う。
国家の重任を双肩に担い、遠く台湾統治の任に当り、あるいは満州に遠征しても、少しも後顧の憂いなからしめたのは夫人の功であった。
児玉家には、源太郎の姉が居ましたが、この姉は大将母堂のように何につけ指図する人であった。しかし、マツは義姉との間も円満につとめ、義姉とマツが折々電車へ同乗して築地の本願寺へ参詣される姿もよく見られたと云う。
また、児玉家は子宝にたいへん恵まれ、長男秀雄氏以下11人の子がおり、児玉源太郎の世話は主に義姉が、夫人は子女の教育に専念しました。
『名媛の学生時代』という本の中で、マツ夫人は自らの学歴を問われてこう述べています。
ずっと以前より東京に住居は致して居りますが、昔の事でして、私の娘時代には何も学問などと申上げる程の事もなくて済みましたのでございますから、その向きのお話は非常に迷惑に存じますのでございます。
強いて申せば寺子屋仕込でございます。 私は極めて不行届きの方がございまして、主人の在世中でも、一向に世間の御交際にも迂うございましたに、先頃不意に主人が逝かれましたので、その後は一層世間を離れた心持が致します。ただ子供達を何とか立派にしたいものとそればかり考えて居ります。
『名媛の学生時代』より
児玉源太郎は日清戦争の時、陸軍大臣代理で非常の繁忙を極め戦争中はまるで陸軍省へ寝泊りをして三度が三度弁当飯ばかりを食べて留守番したという。その元気には皆驚いたという。
平壤が落ちたとの電報が来た晩だけは、あまりの嬉しさに副官の山内大佐に後を頼んで烏森の湖月まで愉快に一人で出てきた。湖月の方では兼ねて児玉から申し込みがあったと見えて芸者十幾人待たせてあった。ただ、児玉が来る、座る、飲む、歌う、踊る、騒ぐ、帰るまでの間がきっちり30分であり、その1分1秒暇も無駄のない手際の良さはいかにも軍略的にできていた。
ところが、その後どこから漏れたのか、この話が夫人の耳へ入ったので、今日こそ帰宅したら、思うさま腹を慰やしてやろうと、手ぐすね引いて待っているとも知らず、源太郎がひよっこり帰って来た。
見るより飛んで出でた夫人は、
「平壌が陥入ったので定めしお嬉しゅうございましょう」
と、言葉の尻に針を持つ挨拶に、「ウム、めでたい」と、源太郎は生返事、そこに付け込んで
「あなたはそれで宜しうございましょうが、私は未だお祝いが済みません!」
と、はしたなく暴れた湖月の一件を指摘され、これには児玉も閉口して、遂に「嬉し紛れの遊びだから」と散々詫びたのでした。
流石の軍略家も、夫人の諜報活動には降参したようです。
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