「東郷平八郎」筆録集

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連合艦隊司令長官奏告文 「海戦経過の奏上」

客歳二月上旬連合艦隊が、大命を奉じて出征したる以来、茲に1年有半、其の間に海陸の交戦皇軍勝利を獲ざることなく、 今日複び和平の秋に遇ひ、臣等犬馬の労を了へて、大纛の下に凱旋するを得たり、是れ一に
大元帥陛下御威徳の然らしむるものにして、臣等の終始感激措く能はざる所なり。

初め連合艦隊の海上に第一期作戦を開始するや、臣は大命に基き海陸の形勢と陸戦の方向を考察し、 敵艦隊の主力を旅順方面に拘束し之をして浦塩の用地に據らしめざるを以て戦略の主旨とし先づ旅順仁川に敵を迅撃し更に數次の攻撃を重ね以て漸次に其の勢力を減殺し、 又屡冒険なる敵港の閉塞及び敵前の水雷沈置等を試み、以て敵の出動範囲を縮小するに力め、 尚麾下艦隊の一部を常に朝鮮海峡に駐めて海上の要害を扼し、以て浦塩の敵を監視すると同時に旅順の敵に対する第二戦隊たらしめたり。 此の作戦の前期中敵は終始地利に據りて退嬰を事とし、我が軍連続の攻撃も容易に其の成果を収むる能はざりしが、 八月中旬敵艦隊主力の旅順より浦塩に逃れんとするに及びて黄海及び蔚山沖の海戦を見るに居り期せずして全く敵の戦略的企画を摧破し、我が作戦目的の過半を達成するを得たり。 其の後陸戦漸く歩武を進め、旅順の背面に対する我が攻囲軍不撓の迫撃は海上に於ける耐久の封鎖と相須て遂に敵艦隊の主力を其の要塞の下に殲滅するに到れり。 惟ふに此の基の作戦は、戦勢の自然に伴ひて漸進微功を積み、攻戦約十箇月に亙り、我が将卒の心力を傾注し智勇を発揮したること本戦役中に冠絶し、 忠死の士殉難の艦亦少からざりしと雖も、戦局の大勢は茲に初て定り、爾後日本海に於ける決勝の機運も此の間に萌芽したるを覚ゆ。

今春年改ると共に第二期作戦に移り、我が艦隊は更に兵力を整頓して敵の第二艦隊に備へ、 傍ら露領沿海州を包鎖して敵国軍資の輸入を遮断し、時に支隊を南洋に分遣して敵の航通を威嚇するに勉め、其の間、対馬、津軽、宗谷、国後等の諸水道附近に於いて捕獲したる船舶三十余隻を算す。 初夏五月に入り敵の第二艦隊近海に出現するに及びて、予め我が全力を朝鮮海峡に集中し、逸を以て労に乗ずるの策を執りしが、我が将卒の勇敢なる動作は神明の加護に由り著々其の功を奏し、日本海海戦の一挙戦影を海上より掃蕩し、 以て此の期の作戦を終結するを得たり。 爾来海洋は名実共に我が艦隊の制壓に歸し、殆ど一兵を損せずして協同の任務を果し、或は時々北緯方面に作動して敵を脅威し、且依然露領の包鎖を続行して休戦復和の終局に至る迄確実に之を維持せり。

之を要するに、連合艦隊の作戦は、其の第一期に於いて戦勢を定め、第二期に移りて戦勝を決し、第三期に入りて戦果を収めんとしたるものにして、 其の間緩急難易の差異ありしと雖も全局に亙る一貫の攻戦は其の始より順当に経過し、終に今日あるを見るに到れり。 今や凱旋して東京湾に集合せる帝国艦船は大小百七十余隻、固より戦役に亡失したるものありと雖も、更に戦利として獲得したるものを加へ、 尚能く戦前に劣らざる武力を保有するを得たるは、臣等の誠に光栄とする所なり。 終に臨み、臣は連合艦隊が満韓に於ける陸戦の効果に依り其の餘利を蒙りたること少なからず、 又海軍大小諸機関の整備活動其の他諸官衙の支助協力に依り海上の作戦遺憾無く進捗したることを感喜す。 茲に謹て海上作戦の経過を報告し、大命に対する責務の結了を奏聞す。

明治38年10月22日  連合艦隊司令長官 東郷平八郎

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海軍殉難者将卒追悼祭典 「海軍戦死者を祭る文」

海陸の戦雲巳に散じて滿都の和氣靄々、童幼歓び迎へて六親門に待つ、是れ諸子と共に生死を共にしたる将卒が大纛の下に凱旋せる頃日の光景なり。 回想すれば、諸子が沍寒を冒し、炎熱を凌ぎ、屡勁敵と闘ふに当たりや、戦局の前途は尚未だ知るに由なく、 諸子の逝く毎に先づ忠死の榮を得たるを羡み、我等も亦必ず諸子に傚うて君国に報ゆるを期せり。 然るに諸子等の勇戦奮闘は常に其の効果を奏し、皇軍戦ふ毎に勝たざることなく、旅順の連攻十閲月にして大勢を定め、日本海の鏖戦一挙に勝敗を決し、爾後海上又敵影を見ざるに至れり。 是れ固より無量の皇徳に基くと雖も、亦諸子等身を外に忘れて奉公したるの致す所ならずんばあらず。 今や征戦其の終を告げ、我等凱旋の将卒四顧歓喜の光景を見るに当り、諸子と此の悅を分つ能はざることを懐ひ、悲喜交々至りて感慨云ふべからざるものあるを覚ゆ。 然れども、今日あるものは即ち諸子が一死の榮ある所以にして、諸子の忠烈は永く我が海軍の精神と為り、以て帝国を無窮に守護せん。 茲に典を挙げて諸子の霊を祭り、聊か懐を述べて弔詞に代ふ。 尚くは来り響けよ。

明治38年10月29日

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「連合艦隊解散告別の辞」

二十閲月の征戦已に往時と過ぎ、我が連合艦隊は今や其の隊務を結了して茲に解散する事となれり。 然れども我等海軍軍人の責務は決して之が為めに軽減せるものにあらず。此の戦役の収果を永遠に全くし、 尚益々国運の隆昌を扶持せんには、時の平戦を問はず、先づ外衝に立つべき海軍が常に其の武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。 而して武力なるものは艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。 百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。 近く我が海軍の勝利を得たる所以も、至尊の霊徳に頼る所多しと雖も、抑亦平素の練磨其の因を成し、 果を戦役に結びたるものして、若し既往を以て将来を推すときは、征戦息むと雖も安じて休憩す可らざるものあるを覚ゆ。 惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理無し。事有れば武力を発揮し、 事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽さんのみ。 過去の一年有半、彼の風濤と戦ひ、寒暑に抗し、屡頑敵と対して生死の間に出入せしこと固より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして、 之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無し、豈之を征戦の労苦とするに足らんや。 苟も武人にして治平に偸安せんか、兵備の外観巍然たるも宛も沙上の楼閣の如く暴風一過忽ち崩倒するに至らん、洵に戒むべきなり。

昔者神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百余年間我が統理の下にありしも、一たび海軍の廃頽するや忽ち之を失ひ、 又近世に入り徳川幕府治平に狃れて兵備を懈れば、挙国米艦数隻の応対に苦み、露艦亦千島樺太を覦覬するも之と抗争すること能はざるに至れり。 翻て之を西史に見るに、十九世紀の初めに当り、ナイル及トラファルガー等に勝ちたる英国海軍は、祖国を泰山の安きに置きたるのみならず、 爾来後進相襲で能く其の武力を保有し、世運の進歩に後れざりしかば、今に至る迄永く其の国利を擁護し、国権を伸張するを得たり。 蓋し此の如き古今東西の殷鑑は為政の然らしむるものありしと雖も、主として武人が治に居て乱を忘れざると否とに基ける自然の結果たらざるは無し。 我等戦後の軍人は深く此等の實例に鑒み、既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以てし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に後れざるを期せざる可らず。 若し夫れ常に、聖諭を奉體して孜々奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば、庶幾くば以て永遠に護国の大任を全うすることを得ん。 神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。 古人曰く勝て兜の緒を締めよと

明治38年12月21日  連合艦隊司令長官 東郷平八郎

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「記念艦三笠」保存記念式 祝辞

記念艦三笠保存工事竣り玄に惶くも

皇太子殿下台臨の下に其の保存記念式を挙げらる本艦の光栄至大なりと云うべし

惟ふに本艦は明治三十七年戦役に際し終始連合艦隊の旗艦として陣頭に立ち前には旅順口及黄海に奮闘し後には日本海に応戦し以て全軍の将卒をして軍人の本分を盡すに遺憾なからしめたるは洵に我海軍史上の一大光彩たらずんば非ず。 今や翕然たる中外の同情に依り其の保全の方法玄に確立するに至れり庶幾くは永久に此の雄姿を示し以て益々皇国の威名を宣掲し併せて当年の忠魂を捧げたる烈士の功績を伝うるを得んか満腔の感激を以恭しく祝す

大正15年11月12日  三笠保存会名誉会長元帥海軍大将 東郷平八郎

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