高濱虚子の『子規居士と余』

松山城の北に練兵場がある。或夏の夕其処へ行って当時中学生であった余等がバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四六人の書生が遣って来た。余等もすそを短くし腰に手拭てぬぐいをはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンですねの露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭てぬぐいも赤い色のにじんだタオルなどであることが先づ人目をそばだたしめるのであった。

「おいちょっとお借しの。」と其うちで殊に脹脛ふくらはぎの露出したのが我等にバットとボールの借用を申込んだ。我等は本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速其を手渡しすると我等から其を受取った其脹脛ふくらはぎの露出した人は、其を他の一人の人の前に持って行った。其人の風采は他の諸君と違って着物など余りツンツルテンでなく、兵児帯を緩く巻帯にし、この暑い夏であるのに拘らず尚お手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板まないたのような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べ余り田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此一団の中心人物である如く、初めは其儘で軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争って其ボールを受取るのであった。其バッチングは却々たしかで其人も終には単衣の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。其うち一度ボールは其人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾って其人に投げた。其人「失敬。」と軽く言って余から其球を受取った。此「失敬」という一語は何となく人の心を牽きつけるような声であった。やが て其人々は一同に笑い興じ乍ら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。

このバッターが正岡子規其人であった事が後になって判った。

其から何年後の事であったか覚えぬが、余は中学を卒業する一年半許り前、ふと国民之友が初めて夏季附録を出して、露伴の「一口剣いっこうけん」、美妙斎びみょうさいの「胡蝶こちょう」、春の屋の「細君さいくん」、鴎外の「舞姫」、思軒しけんの「大東号航海日記だいとうごうこうかいにっき」を載せたのを見て、初めて自分も小説家になろうと志し、やがて早稲田文学、柵草紙しがらみぞうし等の愛読者となった。其れから同級の親友河東秉五郎かわひがしへいごろう君に此事を話すと、彼も亦同じ傾向を持って居るとの事で其以後二人は互に相倚あいよるようになった。其れから河東君は同郷の先輩で文学に志しつつある人に正岡子規なる俊才があって、彼は既に文通を試みつつあるという事を話したので、余も同君を介して一書を膝下しっかに呈した。どんな事を書いて遣ったか覚えぬが兎に角とにかく自分も文学を以て立とうと思うから教を乞い度いと言って遣った。其に対する子規居士の返書は余をして心を傾倒せしめる程美しい文字で、立派な文章であった。是から河東君と余とは争って居士に文通し、しきりに文学上の難問を呈出した。居士は常に其に対して反覆丁寧なる返書を呉れた。其は巻紙の事もあったが、多くは半紙若しくは罫紙を一綴にし切手を二枚以上貼った程の分量のものであった。

子規居士は手紙の端にいつも発句ほっくを書いてよこし、時には余等に批評を求めた。余等は志が小説にあるのであるから更に此発句ほっくなるものに重きを置くことが出来なかった。而も近松を以て日本唯一の文豪なりと早稲田文学より教えられていたのが、居士によって更により以上の文豪に西鶴なるもののある事を紹介されて以来、我等は発句を習熟することが文章上達の捷径しょうけいなりと知り、其後稍々心をとめて翫味がんみするようになった。

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