正岡子規の歳時記

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【出典】 越智二良著『子規歳時』より

慶應3年

  • 9月17日は子規の誕生日。生誕の地松山市新玉町1丁目8、9番地、戦災後の街路改正で定かでなく、ほぼその跡に当る花園町筋に記念の標柱が立っている。

明治7年

  • 8歳の新年に、子規は初めて祖父大原観山の家塾の稽古初めに列席する。

明治9年

  • 10歳で「初めて頭に髷のなき新年」を迎えた。それまでは髷(まげ)を結び、脇差をさしていた。

明治12年

  • 13歳の旧盆のころ子規はコレラにかかった。7日ばかりで全快したが、翌年1月5日付けで安部医師(能成氏の先考)にあてた礼状がある。子規書簡の最も古いものという。

明治14年

  • 8月、山水画を習っていた子規は、画中の仙境にあこがれ、久万山の岩屋行を思い立ち、三並・太田・竹村の三友人とともに出かけた。これが子規の初旅である。
  • 久万に一泊し翌日岩屋寺に詣でたのち、一気に松山まで帰ったが、十余里を歩いた疲労と空腹で子規は再三歩けなくなり、友人らを困らせた。「遊巌谷」その他の詩がある。

明治15年

  • 夏、大洲に遊んで四、五泊して帰った、「登大洲城」の詩があり、「舟過渓村」もこの詩と思われる。「十里碧流風物清、芦花如雪去舟軽」。

明治16年

  • 上京した子規は、はじめ須田学舎のち共立学校に入学、ここで高橋是清にバーレーの万国史を学んだ。

明治17年

  • 明治16年までは正月を郷里で祝ったが、17年初めて東京の正月を迎えた。
  • 夏休みには進文学舎で坪内逍遥の英語の講義を聞いた。

明治18年

  • 9月、柳原極堂から無銭旅行の話を聞き、そのおもしろさに誘われて、子規が秋山真之ら四人連れで鎌倉へ徒歩旅行に出かけた。徹夜の歩行に疲れ果て、精根尽きて戸塚から引き返した。
  • 9月、春廼舎朧(坪内逍遥)の「当世書生気質」を読む。子規が小説に傾倒したのはこのときに始まる

明治19年

  • 夏、旧藩主若君久松定靖(久松知事の叔父)のお供をして、子規が日光・伊香保へ約50日の避暑旅行をした。子規一生での贅沢な漫遊であった。

明治21年

  • 向島の桜もち屋月香楼に、子規と三並良・藤野古白の従兄弟三人が夏休みを送った。子規は昼夜勉学に没頭し、「七草集」の五巻はここで成り、多趣多能の文才に学友らを驚かした。
  • 野球に熱心だったスポーツマン子規はボートの選手でもあったらしく、月香楼へは大学予備門の選手がしばしばボートをこぎ寄せ、同乗して両国の花火を賞したこともあった。
  • 月香楼には古白らが引揚げて後も子規一人留まり、滞在三ヶ月に及んだ。この家の美人娘おろくと親しくしたため種々の風評が立った。子規一生ただ一つのロマンス。

明治22年

  • 子規は幼少の時は左利きで、学校で教師に右手で食べるように注意されたため弁当を持って行かなかった。長じても左手で字を書くのが巧みで、明治22年叔父大原恒徳あての左書きの書簡が残っている。

明治23年

  • 8月、藤野古白ほか二人とともに、子規は十年ぶりで再度久万山に遊んだ。この時は土佐街道の新道が開通していた。二日目は道に迷って竹谷に一泊、岩屋寺に詣でて帰った。

明治24年

  • 夏休みを終えて帰京の途、子規は広島に渡り、県書記官であった佃一予の招待をうけ、宮島を見物し、尾道・笹岡を経て岡山から小豆島にわたり、寒霞渓を見物した。
  • 9月、子規は帰京すると埼玉県大宮公園の万松楼で追試験の準備をした。勉強よりも句作にふけり、黄塔・漱石らを招いたりした。俳句分類の計画を漱石にもらして賛同されたのもこの時。
  • 初秋、子規は竹村黄塔・太田柴洲らと河之内(温泉郡川内村)の滝を見物に行った。近藤家に泊まって翌日滝を見物し、その夜再び近藤家に泊まった。
  • 河之内の滝見物に行ったとき、子規は鎌倉堂という野中の小社の柱に矢立ての筆で「案山子ものいはば猶さびしい秋の暮」という句を書きつけた。この堂はその後取り壊され、落書きの柱は瓦屋の燃料に売られた。
  • 暮れ、子規は常盤舎を出て駒込に間借りし、小説「月の都」の創作に着手する。子規はこれをもって文壇に打って出ようとした。翌年2月中旬に至って漸く完成した。

明治25年

  • 小説「月の都」の批評を求めて、子規は再度谷中に幸田露伴を訪ねる。露伴の言を聞いて悟るところあり、「小説家の骨を得たり」と書いているが、この件は二年後になって初めて「小日本」に発表された。
  • 夏、当時中学生だった景浦稚桃氏らは、帰省中の子規に請うて松山高等小学校で10日間の文学講習会を開いた。子規が講師として教壇に立ったのは、一生でこの時だけだという
  • 夏目漱石は、明治28年松山中学教師として来任する以前、25年8月大学生時代、松山中の川の家に子規を訪れた、母堂は松山鮨をもてなした。

明治26年

 

明治27年

  • 日本新聞が猛烈に時の内閣攻撃を続け、頻繁に発行停止を受けるので、2月11日に別に「小日本」という新聞を創刊。子規は選ばれてその編集主任となり、すぐれた手腕を発揮する。
  • 「小日本」の発行を任された子規は、雑報書きから原稿の整理編集まで一切を切って回し、当時無名の画学生であった中村不折を迎えて挿絵に新生面を開いた。

明治28年

  • 子規は29歳。従軍記者として渡満し帰途発病、療養の後松山に帰り、夏目漱石と五十余日を共に暮らし、帰京後腰痛が起こった。一生を通じ最も変化の多い年であった。
  • 須磨保養院での子規の療養生活は楽しかった。虚子も当時「居士は再生の悦びに充ち満ちていた」と記している。臨終の数日前、虚子と須磨の朝を語り楽しい回想にふけった。
  • 源氏物語は子規学生時代からの愛読書であった。保養院時代も「灯火青く夜更けにし頃、寝ころんで静かに」須磨明石の巻を読みふけった。
  • 健康漸く快復した子規は、8月20日須磨を立ち、広島で五百木瓢亭に会い、25日松山に帰った。 9回目で、そして最後の帰省である。子規は漱石の下宿愚陀仏庵に滞在した。
  • 漱石と子規が約50日にわたり起居を共にした愚陀仏庵は、松山二番町八番戸上野家の離れ部屋で、戦災で焼けてしまった。いまその後に紀念の標石が立っている。
  • 愚陀仏庵に病後の静養を続けた子規は、9月20日柳原極堂とともに石手方面に散策し、翌21日には四人連れで城北山越方面へ散歩を試みた。
  • 「散策集」は子規がこの松山滞在中近郊を吟行した自筆の句集で、旧全集発刊後に発見された。少年時代からの友人、近藤元普翁が秘蔵していたが、惜しくも戦災で焼失した。
  • 愚陀仏庵滞在中の彼岸に、子規は法龍寺の父君の墓に参り、「畑中の荒地と変り果てたるにそぞろ涙を催し」た。この句碑は豊坂町の子規庵(極堂居)に立っている。
  • 愚陀仏庵へは極堂・愛松・梅屋・三鼠らの日参組をはじめ、松風会員らが朝に夕に出入りして、子規の俳話を聞き運座を催し、熱心にその指導をうけた。
  • 漱石は子規を迎えて愚陀仏庵の二階に移り、子規は階下の室にいた。当時漱石は俳句研究を志し、たびたび運座にも加わった。この年から、にわかに作句の数も増し進境を示した。
  • 毎日のように句会を開く傍ら、子規は原稿の筆を捨てず、「俳諧大要」はこの間に起草された。その内容は折にふれて松風会員らに語ったもので、極堂らには常に読書の必要を力説した。
  • ある日、余土村(現松山市)の森円月が、画セン紙10枚を愚陀仏庵に持ち込んで、子規に筆を揮わせた、子規の大筆の書として珍しいものである。
  • 11月、夏目漱石は4年前に子規が見物に行った河之内の滝を見に行き、近藤家の書画帳に子規の歌句を見つけ「不覚破顔微笑」したことを、子規にあてて書き送っている。

明治29年

  • 俳句分類は子規終生の大事業で、古来の俳句を甲乙丙丁の四号に分かち、四季に分類し、各題につき三類十七種に分かつなど、7年後にはすでに稿本を「合せて積めば高さ我全身に等し」となった。

明治30年

  • 3月、「この花」という詩集を出す。子規の鹿笛、父の墓ほか数編が掲載された。
  • 久松定靖は子規より5、6歳の年少であったが、30年の夏大磯で病死した。「同じ病に臥す身のいとど悲に堪えず」両毛漫遊の昔など思い出て、子規は追悼の句をささげ「十年前の旅」を書いた。
  • 保養院で子規は日蓮記を読んで、「壮快措く能はず、覚えず手舞ひ足躍る」のを禁じ得ず、「日蓮」の一文を草した。病気のため衰えようとした子規の意気は、これによってふるい起された。
  • 夏、熊本から上京していた漱石が9月6日離京する日、子規は「萩芒来年逢んさりながら」という句を送った。親しい友と別れるとき、子規はいつも再会をねがうとともに、自分の重病を考えて不安な思いを抱いた。
  • 「今年の春以来脊髄なやみて夏はあるかなきかにくらし庭の秋見んこといかがあるべきと思ひしもいまだ命運尽きず今萩盛り薄なびくけしきをうれしくも打ちながめて」(9月11日手記より)
  • 9月中ごろ、子規は「少しにても元気ある内に、五枚にても十枚にても」と小説を書き続け、時には夜半に及ぶこともあった。この作が「曼珠沙華」である。

明治31年

  • 根岸の子規庵で蕪村句集輪講を始める。病が重くなってからも長くこれを続けて天明の俳聖の研究につとめ、蕪村は子規によって世に現れた。
  • 2月12日、「竹の里人」の名で、「歌よみに与ふる書」を日本新聞紙上に掲載し、子規が和歌革新の第一声をあげる。その後3月4日まで10回にわたって発表し、歌壇に大衝動を与えた。
  • 3月、子規庵で歌会を開くが、この時集ったのは俳人ばかり。

明治32年

  • 3月14日、子規庵に香取秀真、岡麓、山本鹿洲ら歌人が集まって歌会を開く。これが根岸短歌会の起源となる。
  • 果物帖を描き続けた子規は、8月6日鳳梨(アナナス)で完結した。
  • 「上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二人」と詠んだ田安宗武の歌を子規がはじめて発見したのが8月で、「驚喜雀躍に堪へず」車に乗って虚子の家を訪ねたりした。
  • 4年越し病床に親しんだ子規は、8月28日、杖を買って隣家の陸氏邸を訪れた。
    「四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり」、しかし帰りは負われて帰った。
  • 秋、子規は不忍池のほとりに下宿していた。仲秋名月の夜、五百木瓢亭がはじめて新海非風に伴われて来訪、上野を散歩して俳句を作った。この三人は翌秋の名月を向島に賞した。

明治33年

  • 平賀元義の歌を赤木格堂が知らせて来たのは、8月13日であった。この朝子規は28年以来の多量の血を吐いたが、「血ヲ吐キシ病ノ床ツレヅレニ元義ノ歌見レバタノシモ」と詠んだ。
  • フランクリンは子規の最も讃仰した人物である。8月は、かって詠んだ英文の自叙伝を再び日課のように読んだ。この本を読んで「余の如く深く感じた人は外にあるまい」と書いている。
  • 8月下旬、左千夫の主唱で子規の興津転居問題が起こった。訪客を避け療養に専念するためである。賛否両説があって容易にきまらず、10月中旬に至って中止と決した。
  • 漱石が英国留学のため横浜を出帆したのは9月8日。子規は洋行した人々が次々に帰って再会の喜びを得たが、「漱石洋行と聞くや否や迚も今度は独り悲しく相成申候」と書いている。
  • 文章には山がなければならぬと主張した子規は、9月から、子規庵に門下を集め「山会」という文章の会を開いた。このころから写生文を鼓吹した。

明治34年

  • 「墨汁一滴」の連載を始める。たまたま紙面に載らない日があって、子規は狂気のように騒いだ。子規にとってはこれが唯一の慰藉であり、生命でもあった。
  • 子規は上京して藤野家に寄宿しているときも、よく大勢の友達を連れて来ては、松山鮨をつけてもらって振舞った。「われ愛すわが予州松山の鮓」、もぶり鮨は彼のなつかしい味覚であった。
  • 『仰臥漫録』の筆をとり初めたのは9月2日から。これは子規の私記で、欲するに従って句を書き、歌を書き、絵を描き、感想をしるし、生前には親近者にすら示されなかった。
  • 『仰臥漫録』に、子規は妹のことを木石の如き女だの、強情だの冷淡だのと書きながらも、「一日にても彼女なくば一家の車は其運転を止めると同時に余は殆ど生きて居られざるなり」と書いている。
  • 主治医の宮元仲は、母堂と令妹の献身的な看護を賞讃し、特に律の「女の中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩まで一刻の休みもない」心尽くしの看病ぶりを激賞している。

明治35年

  • 8月1日、別の画帳に秋海棠と金蓮花を写生した。これが草花帳のはじめとなる。
  • 草花帳はヒオウギ・エゾ菊・ナデシコ・忘れ草・水引草・野菊と毎日描きつづけ、8月20日の朝顔で完成した。描かれた草花は14種類。その後は玩具の写生をはじめた。
  • 幼い時祖母がヒキガエルをかわいがり、毎晩縁側で見ていたので、今もヒキガエルをゆかしく感じる。読書・労働・昼寝・飲酒「何でも子供の時に親しく見聞したことは習慣となる」と『病牀六尺』に記す。
  • 8月20日、「渡辺のお嬢さん」が子規を訪ねた。ひと目みて夢中になった・・・・・・と美人にたとえた。実は子規が執着したのは渡辺南岳の草花絵巻。
  • 「南岳草花絵巻」を手に入れたいという子規の熱望は、はじめ不調に終ったが漸く望みがかなった。子規はその始末を恋物語になぞらえて、『病牀六尺』に二回にわたって書いた。
  • 「朝蚊帳の中で目が覚めた」 9月14日の早朝、子規はガラス障子越しに庭を眺めながら、一文を口述して虚子に筆記させた。「9月14日の朝」の一遍、死の5日前である。
  • 9月18日の朝、子規は板にはりつけた紙へ糸瓜(へちま)三句を次々に書きつけた。まくらべに侍した妹も碧梧桐もただ黙然と見守った。
  • 絶句の三句を書きつけた後、子規は危篤の状態をつづけたが、深更に至って安らかに眠ったまま息が絶えた。9月19日午前1時、陰暦17日の月明らかな夜半。
  • 辞世の三句にちなんで、19日の子規忌を糸瓜忌、また別号によって獺祭忌ともいい、全国で盛んに修される。墓は東京田端大龍寺にある。

【出典】 越智二良著『子規歳時』より

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