「正岡子規」語録集

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書生編

人間というのは蟹がこうらに似せて穴を掘るがように、おのれの生れつき背負っている器量どおりの穴をふかぶかとほってゆくしかないものじゃとおもえてきた

ゆくゆくは太政大臣になることを目指し、故郷松山を出た子規ではあったが、哲学に関心をもつにつれて、人間の急務はそのようなところにないと感じはじめる。
その時の気持ちをたとえにして真之に打ち明けたのがこの言葉。その時に真之は子規の「こうら」こそ「文芸」であると思うのであった。
そして、この言葉は、真之の心をも大きく動かすこととなった。その後、真之は大学予備門を退学し、海軍兵学校へと進むのであった。

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社会人編

人間のえらさに尺度がいくつもあるが、最小の報酬でもっとも多くはたらく人ほどえらいぞな。一の報酬で十の働きをするひとは、百の報酬で百の働きをする人よりえらいのぞな

松山の後輩で新聞社で働くことが希望であった寒川鼠骨(さむかわそこつ)が上京した際に、月給の高い「朝日新聞」にするか、子規のいる「日本」にするか迷ったときに子規が言った言葉。「考えるまでもないがの、日本におし」

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あそばずに本をお読みや。
本を読むのにさほど金は要らんものぞな

同じく寒川鼠骨(さむかわそこつ)に言った言葉。月給の高い「朝日新聞」で働けば自ずと遊び癖がでる。遊ばずに本を読んで勉強しなさい。いくら月給の低い「日本」でも本ぐらいは買える。

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正岡子規の作品から

『筆まかせ』(明治18年)より

  • 我彼を知るも彼我を知らざる時は彼に向かって礼をなすも無効なり
  • 世間恐るべきは猛獣毒蛇にあらず。壮士暴客にあらず。
    只只勉強家と沈黙家と謙遜家のみ。

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『筆まかせ』(明治23年)より

  • 人間が一定の目的を立ておきながら勉強せぬはおかしきこと也。

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『野のわかくさ』(明治26年)より

  • 女はわきて其才秀でたらんよりも心ざますなほにて親にも夫にもよくつかへかしづくこそいとたのもしく覚ゆる

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『獺祭書屋俳話』(明治28年)より

  • 言葉俗なりとも心うちあがりたらんは如何ばかり高尚ならまし

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『俳諧大要』(明治28年)より

  • 美の標準は各個の感情に存す。
    各個の感情は各個別な故に美の標準も亦各個なり。

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『松蘿玉液』(明治29年)より

  • 貧しきことは常のことながら月の末は殊に貧しく年の暮は更に貧し。
  • 貧の極度は一文もなきことぞと覚えたる書生の内はなかなかに一文も無きこそ魂落ちつきて心安きこと多けれ。
  • 批評の長短は第一の褒貶にして言語の褒貶は第二の褒貶なるべし
    (長くスペースを割いて批評しているということは、すでにそれだけで、価値を認めているものだ。中でほめているか、貶しているかは、二の次である。)
  • 批評の標準が道理の上より来らずして感情の上より来るは珍しき事に非ず。

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『墨のあまり』(明治30年)より

  • 何も彼もあてにならぬ世の中にはありけり

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『俳諧反故籠』(明治30年)より

  • 美は理論に現し難し、只只実物に就いて一々評論せんのみ。

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『再び歌よみに与ふる書』(明治31年)より

  • 見る所狭ければ自分の汽車の動くを知らで、
    隣の汽車が動くやうに覚ゆる。

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『万葉集巻十六』(明治32年)より

  • 滑稽の趣きを解せざれば真面目の趣きを解する能はず

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『病牀譫語』(明治32年)より

  • 悪意は機微に防がざれば、
    愛児をして母を食ふの梟とならしむる事なきにしもあらず
    (まだ善悪の観念のない子供でも、悪い事は悪い事として叱っておかないと、将来もっと大きな悪を為すものである。)
  • 父兄の子弟を教育するに厳に過ぐるは悪し
  • 知育は学校に一任して干渉せざる寧ろ可なり
  • 議論は一時を快にすといえども、退いて静かに思へば畢竟児戯のみ
  • 子を愛せざるの親はあらず、しかも子を教ふるの親は少し

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『竹里歌話』(明治33年)より

  • 変化は必ずしも進歩にあらず。

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『墨汁一滴』(明治34年)より

  • 春雨の朝からショボショボと降る日は誠に静かで小淋しいようで閑談に適して居るから、斯ういう日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たという遠来の友があると嬉しかろうがそういう事は今まであった事がない。
  • 人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂に似て心よからぬ事あり。
    実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ
  • 人の希望は初め漠然として大きく、後漸く小さく確実になるならひなり。

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『病牀六尺』(明治35年)より

  • 読書する事、労働する事、昼寝する事、何でも子供の時に親しく見聞きした事は自ら習慣となる様である。家庭教育の大事なる所以である
  • 男子にして修色を為さんとする者は須く一箇の美的識見を以て修飾すべし。流行を追ふは愚の極なり。
  • 美的修飾は贅沢の謂に非ず、破袴幣衣も配合と調和によりては縮緬よりも友禅よりも美なる事あり。
  • 幾多の少年に勧告する所は、成るべく謙遜に奥ゆかしく、真面目に勉強せよという事である。
  • 家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教えようと思わない事でも、子供は能く親の真似をしている事が多い
  • 窮して而して始めて一条の活路を得。始より窮せざるもの却って死地に陥り易し
  • 碁の手将棋の手というものに汚いと汚くないとの別がある。
    それが又其人の性質の汚いのと汚くないのと必ずしも一致していないから不思議だ
  • 酒は男の飲む者になって居て女で酒を飲むものは極めて少ない。
    これは生理上男の好くわけがあるであろうか。
    或は単に習慣上然らしむるのであろうか。寧ろ後者であろうと信ず
  • 雑談という上は、むずかしい道徳上の議論などをするのではないが、高尚な品性を備えた人の談ならば、無駄話のうちにも必ず其高尚な所を現している。
  • 明治維新の改革を成就したものは二十歳前後の田舎の青年であって幕府の老人ではなかった。日本の医界を刷新したのも後進の少年であって漢方医は之れに与らない。
  • 若し此上に進歩して行ったならば日本はどんなことを仕出来すかも知れない。何処の国でも恐らくは日本の将来を恐れて居らぬものはなかろう
  • 幕府以来の名家固より産あり。
    而してその朝飯は味噌汁と香の物の外、又一物を加へず。
    之を主人に質せば、主人曰く、我も余りまづい朝飯とは思へど、古来の習慣今更致方もなしと
  • 泥坊の信仰に就いては仏教に限らず耶蘇教にも其例多し。
    彼等が精神の状態は果して安心の地に在るか、或は不安を免れざるか、心理学者の研究を要す。

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俳諧編

『松羅玉液』より

  • 俳句の趣味は其簡単なる処に在り。簡単をすてて複雑に就けよといふ者は終に其簡単の趣味を解せざるの言のみ。

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『俳諧大要』より

  • 俳句は文学の一部なり、文学は美術の一部なり。
    故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。
  • 俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。
    巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ。

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詩歌編

『再び歌よみに与ふる書』より

  • 貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候

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文学編

『病牀譫語』(明治32年)より

  • 文学は材にあり、年に在らず。
  • 文学は文字に縁あるがために時に無風流の議論を為す

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病苦編

『病牀六尺』(明治35年)より

  • 病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きて居ても何の面白みもない。
  • 病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が世には広過ぎるのである。
  • 「僅かに手を延ばして畳に触れる事はある」程度の不自由な床にも、新聞雑誌で「読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様なことが無いでもない」
  • 笑え。笑え。健康なる人は笑え、病気をしらぬ人は笑え。幸福なる人は笑え。

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遺言

吾等なくなり候とも...

吾等なくなり候とも、
葬式の広告など無用に候
家も町も狭き故ニ三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候
戒名といふもの用ゐ候事無用に候
曾て古人の年表など作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり戒名といふもの長たらしく書込に困り申候
戒名などは無くもがなく存候
自然石の石碑はいやな事に候
柩の前にて通夜することに無用に候
通夜するとも代りあひて可致候
柩の前にて空涙は無用に候
談笑平生の如くあるべく候
『仰臥漫録』(明治34年)より

明治35年9月19日、この遺志に従い、子規の死亡通知広告は新聞に出されなかった。しかし、翌日になると各紙によって子規の死は報じられることとなった。

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