HOME > 「坂の上の雲」ライバル伝 > 正岡子規と与謝野鉄幹 > 根岸短歌会
正岡子規は大学在学中早くも俳句の刷新に志し、日本新聞に入社すると、文壇革新の意気に燃えて、その文苑欄を担当していた桂湖村らと共に、いよいよ活発な文壇革新運動に邁進して、まず俳句の革新に渾身の精力を傾けます。そして、その仕事が一応成就すると、今度は落合直文らによる前期の和歌改良の後を承けて、旧派和歌に対して革新の烽火をあげたのでした。
その第一声は、実に1898年(明治31年)2月から3月にかけて10回にわたり新聞『日本』に連載した、
「歌よみに与ふる書」の発表になります。
貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものゝ実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能く存申候。
「再び歌よみに与ふる書」(明治31年2月14日)より
愚考は古人のいふた通りに言はんとするにてもなく、しきたりに倣はんとするにてもなく、
只々自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るように現すのが本来の主意である「十たび歌よみに与ふる書」(明治31年3月4日)より
この歌論は、今まで他に見ない語気の鋭い文章で、実朝の独創をほめ、万葉集をほめ、古今集の価値のとぼしさを論じ、景樹の見識の低さを喝破し、今までの歌人の不見識低調さを痛論します。
香川景樹らもさることながら、村田春海や八田知紀も高崎正風も、また落合直文、与謝野鉄幹さえもが徹底的に批判されます。
けれど子規の言説には、一つ一つに正しい理由があり筋がとおっていました。
彼は強い自信をもって言うべきを言ったのです。
「異論の人有らば何時にても来訪あるようー三日三夜なりともつづけさまに議論可到」
と、男らしい態度を表明します。当時の若い歌人達は、これを三読して、歌についての正しい眼を開かれたのでした。
こうして和歌の革新に着手した子規は、およそ一年ほどの間専ら独創の歌論を発表して歌壇を啓蒙したが、また「百中十首」などの試作を発表するとともに、竹の里人と号して、同誌門人を集めて和歌の研究に乗出します。1899年(明治32年)の始め、香取秀真、岡麗、伊藤左千夫らが訪問したのを機縁に、それまで俳人仲間だけであった下谷根岸の自家の会合を歌人をも加えて、根岸短歌会を組織したのでした。
一方、この短歌会に関しては、俳人仲間たちはどのように思っていたのでしょうか。
俳人高浜虚子はこのことについて、次のように語っています。
居士の仕事は凡そ三つに分つことが出来た。其一つは俳句の仕事、其二は和歌の仕事、第三の仕事は写生文の仕事であった。俳句の仕事は、もう天下の大勢が定まって、一寸容易に動かぬ迄になっていたので、居士は寧ろ其方よりも当時創業時代にあった和歌革新の事業の方により多くの力を注いで居ったのである。けれども居士の事であるから決して俳句の方を疎かにするではなかった。和歌に関する事は主として日本新聞紙上に於てし、俳句に関係する事は主としてホトトギス紙上に於てするようにしていた。(中略)
俳句を作るもので和歌を作るものも少しはあったが其は寧ろ少なかった。どちらかというと俳句の弟子と和歌の弟子とは其々別々に屯ろして居った。そうして写生文の方には初めは俳句の側のもの許りであったが、中頃から和歌の側のものも走せ参じて恰も両者が半分位づつの割合となった。
余は和歌には殆ど無関係であった。其が原因というではなかったがホトトギスには最も和歌の関係が薄かった。初めは強いて二三の作を載せたが其もいつか中絶してしまった。
高浜虚子「子規居士と余」より
しかし、本音はと言うと、子規が歌詠み仲間と交流するのはあまり快くは思っていなかったようです。
鳴雪をはじめ、われわれ仲間は、どれも貧乏書生で、今日を食ふに追はれてゐた。
伊藤左千夫、岡麓などいふ歌よみ仲間が出来てから、俳人とは違って、財産もあり、商売も大きかったので、月々いくらかの金を小遣ひによこすことになった。病床の上へ、木綿の財布をつるして、其の小遣いをながめては楽しんでゐたこともあった。われわれが行くと、けふは僕の小遣ひでおごるから、何でも好きなものを註文おしよ、などうれしさうにいふのだった。そんなに、余計な小遣銭を持つことが楽しみなのかと驚きもし何やら涙ぐましくもあった。河東碧梧桐著『子規の回想』より
伊藤左千夫は搾乳の事業で成功しており、岡麓は書房の経営に書家としての名声もあり、生活には余裕がありました。
![]() |
![]() |
![]() |





