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日清戦争

二人が人生の進路を漸く見つけだしつつあった、明治27年8月、日本に未曾有の事態が起ります。
近代初めての対外戦争である日清戦争の勃発でした。国内は戦争一色に変わって行きます。
真之も出撃命令を受け、戦地中国へと向いました。

子規も志願し、従軍記者として真之を追いかけるように戦地へ向います。
しかし、無理をかさねた従軍取材により、またも喀血。
子規はこれ以後大きく体調を崩すことになりました。

一方、軍人として戦った真之にとっても、日清戦争は納得のゆくものではありませんでした。
まだ若い真之は後方支援にまわされ、艦の故障も重なり目立った功績をあげることはできなかったのです。

秋山真之のアメリカ留学

この時、真之が決断したのが、アメリカに留学し最新の兵学知識を身につけることでした。

真之は明治30年にアメリカ留学を志します。
しかし、国費による定員とは別枠の私費留学という形で、特例として認められたものでした。

アメリカの私費留学に立身出世をかける真之。
三年という長い留学生活を始める前に、真之は子規に別れを告げます。

真之が旅立った8月5日、子規は次のような句を贈っています。

<秋山真之を米国に送る>  君を送りて 思うことあり 蚊帳に泣く

子規が泣いた思うこととは何であったのか、子規はそのことについて、一切記していません。

この句の背景を探る重大な記録が近年大阪の民家で見つかりました。
真之と別れる1年10ヶ月前、子規が自らの体に起きた異変について書いたものです。

(明治28年10月24日)
腰の間接が痛む
歩くことも自由にならない
これはリウマチによるものだろうか

(NHK番組より)

子規は体の異変をリウマチだと考えていました。

しかし、その直後病名が発覚します。
高浜虚子宛の手紙で、子規は病名を知った時の驚きを、次のように語っています。

(明治29年3月17日)
貴兄驚き給うか僕は驚きたり
今日の夕暮れゆくりなくも
初対面の医師に驚かされぬ
医師は言えり
この病はリウマチにあらずと

高浜虚子『子規居士と余』より

子規がリウマチだと思っていたのは、脊椎カリエス。
結核菌が体に広がり、脊椎を蝕む病気です。
特効薬がない当時、脊椎カリエスにかかったことは、死が間近に迫ったことを意味していました。

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