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春や昔十五万石の城下かな

戦国時代の気風を今に伝える松山城

松山城

(画像提供:観光写真お貸し屋さん

山を取囲んで広がる城下町の一角で、正岡子規秋山真之は誕生しました。

正岡子規

秋山真之正岡子規は、明治改元一年前の慶應3年(1867年)9月17日、 伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれました。 幼名のぼる。 六歳の時に父親が亡くなり、 苦しい家計のなか母親の女手一つで育てられました。

秋山真之は、 明治元年(1868年)3月20日生まれ。
下級武士の五男として、子規と同じく貧しい家庭に育ちました。幼名は淳五郎。

二人の出会い

明教館

二人の生まれた頃は、松山藩が明治維新で徳川方について破れ、賊軍の汚名をきせられて没落した厳しい時代でした。

そこで、松山の人々は、子供たちの教育に未来を託します。
子規と真之が学んだ明教館
二人は同じ小学校・中学校に通う内に、
親友になったと伝えられています。

しかし、どのように交流していたのか、詳しい資料は残っていません。

二人の交流を探る手がかりが愛媛県立図書館に残されていました。
明治15年に松山市内で発行されていた文芸雑誌「風詠新誌」です。
この雑誌の投稿欄に中学生だった子規と真之の歌が掲載されていました。
「藤原藤房」と題した漢詩を投稿しているのが、当時16歳の正岡子規。
そして、「夏草」という和歌を投稿していた秋山真之は15歳でした。

(NHK番組より)

『正岡子規入門』の著者で知られる、子規研究の第一人者として知られる和田克司さんに依りますと、
当時最新のメディアだった雑誌が、子規と真之を結びつける重要な役割を果したと考えます。

二人の歌の師匠は同じ人物でした。
当時松山きっての歌人であった井出真棹(まさお)です。
井出真棹に入門したのは真之の方が先でした。
秋山家と井出家とは古くから親交があり家族ぐるみの付き合いをしていたのです。
幼い頃から井出家に出入りし、歌を習っていた真之が、子規を和歌の道に誘ったと云います。

後の人生に重要となる影響を与え合っていた若き日の真之と子規。
やがて青年となった二人は、外の世界への憧れを強めるようになり、上京を決意します。

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(お断り)
本文の構成は、平成20年4月4日(金)に四国地区で放送されました、
 NHK四国スペシャル 「贈られた言葉」 - 正岡子規と秋山真之 交流の記録 -
の内容を参考にしています。なお、画像等につきましては番組とは一切異なるものになります。