HOME > 「坂の上の雲」ライバル伝 > 加藤友三郎と島村速雄 > 連合艦隊参謀長
海軍のみならず、陸軍、さらには官界すべてを通じていえることですが、海軍においても当時から、学校卒業時の席次が、昇進に影響しました。首席卒業の島村は、常に同級のトップをきって昇進し、例えば、日本海海戦当時には、島村は第二戦隊司令官、加藤は連合艦隊参謀長でありました。同期生の中では、この二人だけが少将になっており、他は皆大佐で、主力艦の艦長などに任ぜられていました。
連合艦隊の参謀長の人事について、東郷平八郎ははじめ伊集院五郎を参謀長に希望しました。しかし山本権兵衛が 「彼がいないと軍令部がうまく動かない」 と反対します。次にロシア通ということで野元綱明の名があがりますが、どうも心もとない。 そして次に名が上がったのが島村速雄でした。すると伊東祐亨が、
「日清戦争のとき使ったが、あれはいいね」
と言ったことから、それではということで参謀長は島村速雄に決定します。
しかし、日本海海戦では、島村は参謀の任は秋山真之に託して、自らは第二艦隊補強のために第二戦隊司令官に就きます。 島村の後任に加藤が任命されますが、これは東郷が加藤を所望したのではなく、山本海相と伊東軍令部長の合議に依るものであります。
加藤は後年、東郷を評して 「細心のなかに大胆を包んでいる」 といったが、これは東郷の輪郭をよく表現しています。東郷は、「よく気のつく」人物であり、「よく気のつく」人物に共通の仁慈心に厚かった。また、自分の言動が、連合艦隊の士気に、ことごとく影響することを思って、常に悠然と構えていた。ただ、細心のために、部下の気づかないことに、いち早く気づいて注意をあたえる、ということも少なくありませんでした。
日本海海戦で、ロシアのニコライ一世が降伏するときにも、そういうことがありました。 ニコライ一世は、わが主力艦隊の集中攻撃に満身創痍となって、遂に応戦をやめます。しかし「三笠」はまだ砲撃をやめない。そのとき、先任参謀秋山真之が、東郷に向って、
「長官、敵は射撃をやめました。もう降伏です。武士の情けです。砲撃をやめさせて下さい」
と叫びます。しかし、東郷は、
「まだ艦首が波をきっている。白旗もあげておらん」
といって、砲撃をやめさせない。まもなく敵は全く停止し、白旗がマストに揚ったのを見極めて、はじめて砲撃をやめました。
加藤は秋山と違って、口数の少ない人でした。必要なこと以外は、東郷にも部下にも、あまり発言しません。東郷は司令長官であるから作戦上の全責任は自分にまかせておいて欲しい、というのが加藤の考え方であったらしいです。
東郷も、無論そうした加藤の態度を不可とはしませんでしたが、ただ、加藤の無口には、いささか物足りない感じをもっていたようだと伝えられています。
加藤は無口ばかりではなく、余計なことをしないという性格であり、職責には厳格であったが、職責以外のことには、非常に無頓着でありました。
連合艦隊参謀長の前任者であった島村は東郷に、「長官、お寒いでしょう」といって外套をかけてやる、というようなこともありましたが、加藤はそういうことを、かってしたためしがありませんでした。これは冷淡というよりも、そういうことをはじめから念頭に置かなかったようです。
しかし、東郷は加藤の人物をよく知っていました。平素はサッパリ物事にこだわらないが、いざとなれば村正の名刀のごとき果断の性格の持主であることを、東郷はよく知っていました。智勇兼備の人間加藤を、誰よりも東郷は知っていたのでした。東郷と加藤、この滅多にない無口の二人の人間が、ただ以心伝心で結び合い、日本海海戦の大勝利をあげたことということは、考えてみれば面白いことであります。
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