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海外派遣留学

1897年6月26日5人の海軍大尉の外国留学が決定された。

イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄大尉、アメリカには秋山真之大尉――。どれもこれも選り抜きの俊秀ばかりである。

財部は1889年首席で卒業、村上は1884年第二位の成績、林は1885年の第三位で卒業、そして、
秋山真之は1890年の首席卒業。

ところが最後のロシア留学内定者として出てきた名前をみると、海軍大尉広瀬武夫としてある。
あの広瀬か、よかろうと山本権兵衛少将は思わずにやりとしたが、卒業席次80人中64位とあるのに驚いた。64はまちがいだろう。6と4の誤記でなかろうか。なんぼなんでも64番のはずがない。副官に調べさせると、「まちがいありません、64番であります。」と断言した。これには山本も躊躇した。

ところが、この当時留学生の候補の中にロシア語を学んでいる者が少なかった。その中で広瀬はとにかくその言葉を修めていた。彼がロシア語を研究するようになったのは、1891年5月に起きた大津事件による。一時は国際問題にまで発展しそうになったこの事件をきっかけとして、広瀬はロシア関係に深く注意をはらい、研究に志していたのであった。

広瀬大尉が熱心にロシア研究を志しているという評判が関係者の間に知れ渡っていた。

広瀬はずばぬけた秀才ではないが、よくよく効果表をみると、軍人の本命たる実地勤務は申し分ない。練習艦「比叡」の乗組としては、抜群の働きをした。水雷術を練習させると、同期の尉官10数名のうち、首席で卒業した。さっぱりとした性格で勤務にはげむ。心があかるく、快活である。いつもたのしそうである。艦上でも、陸上でも、勤務をとるのが、義務を果たすというより、愉快でしかたがないらしい。その明るい楽しい気持ちは、おのずと周囲にも伝わった。相手も明るく、楽しくなる。 広瀬のいるところには、いつも春風の吹きかよう趣があった。いかにもりっぱな人物であると、上官は極力推薦している。

山本は思い切って決済の印をおした。

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