日露戦争とは
日清戦争の大勝利によって、日本は清国から、満州(現在の中国東北省)南部、台湾、膨湖列島などを得て、大いに国力を伸ばしたが、東洋に於ける日本の発展を、不利益と見たロシアはドイツ、フランスと同盟して遼東半島(満州最南部の半島)を清国へ返せと迫った。
当時、ロシアはイギリス、アメリカと肩を並べる大国であり、フランス、ドイツも又、世界有数の強国であったので、日清戦争に国力を使った日本は残念ながら、この申し出を承知する外はなかった。しかも、ロシア自身が無理やりに遼東半島を清国から借り受けて、そこにある旅順の港を要塞化し、更に北清事変(白人の清国侵略に反抗した中国暴民の乱)を口実として満州に軍隊を続々と送り込み、その強い圧力は北朝鮮にまで迫ったので、ロシアの横暴をこらえにこらえて来た日本国民のいかりは最高潮に達した。
当時の外務大臣小村寿太郎はロシアと何回も交渉を重ねていたが、遂に明治37年1月12日、元老(国家に対する功労によって特別に天皇の御下問に答える老年の政治家)会議で、戦争は避けることが出来ないと結論を出し、引続く御前会議(天皇が出席される政治の会議)で、伊藤博文ら元老達、内閣の大臣達、陸海軍の首脳部は次々と立って、自衛上(自分を守るため)、ロシアとの戦争の必要と短気決戦(戦争を短い日数で終らせる為の作戦)の勝算を述べ、天皇の御決心を待った。しかし、天皇は更に充分な戦争計画と国民に与える影響とを考えるよう、お述べになって席を立たれた。
更に、交渉は重ねられたが、その間にもロシアは、軍隊を増やして朝鮮に進入し、旅順には名将ステッセル将軍を送って、防備をかためていた。
そして、遂に2月4日、最後の御前会議でロシアとの戦争は決まり、日本軍隊の動員令が下された。
当時のロシアは世界最大の陸軍国でその東洋の兵力だけでも日本軍の数倍に及ぶ大敵であった。
東郷司令長官の率いる連合艦隊は宣戦布告と同時に、ロシア艦隊のいる旅順を砲撃し、陸軍の上陸部隊をのせた一隊は朝鮮の仁川港の沖合でロシア軍艦2隻を沈めた。この最初の勝利に引続いて、海軍は、旅順の港内のロシア艦隊を外へ出さない為に、港の口に船を沈めてふさぐ作戦を立て、三回にわたって決死隊を出して、見事にこれをやりとげた。
この作戦中、日本の軍艦「春日」と「吉野」が衝突して沈み、又、「初瀬」と「八島」も敵の浮べた水雷に触れて沈んだ。山本権兵衛海軍大臣と伊東祐亨軍令部長は天皇に、この事件を報告して辞職を申し出たが、天皇は「私には辞職がない」とお答えを下さり、二人は、そのご決意のかたさに感激するのであった。
5月になって、黒木大将の指揮する第一軍、奧大将の第二軍、野津大将の第四軍、合わせて数十万の日本陸軍の大部隊は、南満州の広い原野一ぱいに大戦線を展開し、各地に勇ましく戦ってロシア軍をうちやぶった。その後、満州の日本軍総司令官に大山巌元帥、参謀総長に児玉源太郎大将がなり、いよいよ8月になって、敵の大要塞遼陽の攻撃を開始した。同じ頃、旅順を攻める為に特別に編成された、乃木希典大将の指揮する第三軍は、8月24日から第一回の総攻撃を始めたが、名将ステッセルのもとに600余りの大砲を一斉にうちかけ、その頃の最新兵器機関銃を雨あられとあびせるロシア軍の前に、日本兵はただただ死体の山を要塞の斜面に築くだけであった。
同じように、遼陽の攻撃戦もはげしく、日本軍がしばしば全滅するような戦いが続いたが、9月3日、総司令官クロパトキンをはじめロシア軍は陣地をすてて総退却し、これを追撃した日本軍は沙河に於ける大会戦にも勝利を得た。
この頃、ヨーロッパ本国から、ロシアのバルチック艦隊は、日本海軍を攻撃に向ってはるばる東洋遠征の航海に出た。
この報告を受けた日本の軍人も国民もバルチック艦隊の到着前に旅順を陥落させたいと思った。その為、山県有朋参謀総長、山本海軍大臣などは、乃木大将では旅順を攻め落せないと、天皇に司令官の交代をされるように進言したが、天皇は、どこまでも乃木大将を信頼され、かえって、はげましのお言葉を下される程であった。
11月になって、第二回旅順総攻撃が始まったが、「二百三高地」をはじめ、敵の重要な砲台は、日本軍の「白襷」決死隊などの猛襲でも落すことは出来なかった。続いて、第三、第四と総攻撃が加えられ、明治38年1月元旦、さすがの旅順要塞も力が尽き、ステッセルは乃木大将に降参して来た。
これに力を得た日本軍は、全軍隊を集めて北へ攻め込み、奉天の城を囲んで、3月10日に奉天に入城した。
そして、いよいよ、あの名高い日本海大海戦の日は来た。半年をこえる大航海の後、バルチック艦隊は5月27日、対馬海峡に姿を現したのだ。
「敵艦見ユ」との報告に、連合艦隊は、ただちに発進し、東郷平八郎司令長官の乗る旗艦「三笠」のマストには、「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」のゼット旗がかかげられた。次第に両艦隊は近づいて、ロシアの軍艦「スワロフ」が先ず第一弾をはなって来た。敵味方の距離は1万2千が1万、8千5百、8千とせまり、東郷司令長官は、ここに、突如、艦隊を左に旋回させて、敵艦隊の頭を押さえつける形をとった。そして、距離6千メートルになった時、猛然と砲撃をあびせかけたのであった。こうして、敵艦は、大胆不敵な作戦の為に滅茶苦茶に打ち破られ、沈没するものが相次いだ。そして、その日の夜戦、翌28日の海戦で、遂にバルチック艦隊全滅したのであった
(パンフレットより抜粋)
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