旅順攻略と乃木将軍

乃木希典

遼陽の攻撃がはじまる少し前、旅順攻囲軍として新しく編成された第三軍は、乃木希典大将を司令官として8月19日から旅順要塞の総攻撃をはじめた。

もともと、この攻撃は、バルチック艦隊がやって来る前に港内に閉じ込められた残りの敵艦隊を打ち破ってしまおうという、海軍の強い望みがあったので、攻囲軍は長い日数をかけて、だんだんに攻めて行くという正攻法でなく、一度に攻め落とそうという強襲戦法を採用しなければならなかった。

その頃、旅順は、敵が東洋一と誇った大要塞で、港と市街のまわりは、すべて高い山でかこまれ、その頂上には、コンクリートでかため、大砲と機関銃を無数にそなえた砲台がずらりと並んでいた。その中でも、松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山などは、鉄の壁のように日本軍の前に立ちふさがり、又、二百三高地は、最も堅固な陣地で難攻不落といわれていた。部下を自分の子供のように愛し、人の命をこの上もなく大切にした乃木司令官は、この要塞に強襲戦法を敢行することを大変つらく思った。これも軍人としてやむを得ないと考え、ついに総攻撃の命令を下したのである。

日本軍は、一回、二回、三回と、肉弾攻撃を行って攻めたてたが、敵はかくれるものもない斜面を下から攻めのぼる日本軍めがけて、ねらいうちに弾丸を浴びせかけたので、各所に全滅する部隊が相ついだ。

この時、各師団から特別にえらばれた三千人の決死隊は、味方の目印に、各々白いたすきをかけて、日本刀、鉄剣をふるって敵陣に斬りこんだ。このすさまじい突撃ぶりは、白だすき決死隊として敵をふるえあがらせ、後に決死隊といえば白だすきをいわれる程、有名になったのである。

白だすき隊
白だすき隊

こうして、明治37年も終りに近く、11月26日の第三回総攻撃から引き続いて、最後の総攻撃が行われついに、二百三高地の占領を第一番に次々と敵砲台は陥落し、12月31日、松樹山砲台を最後に、旅順をめぐる要塞は、全部日本軍がうばいとったのであった。そこで、敵の将軍ステッセルは、これ以上の戦争をあきらめ、明治38年の1月1日、乃木司令官に降参を申し出て来た。

二○三高地
二百三高地西北の半腹より頂上を望む、写真左下は破壊された掩葢(えんがい)

この報告が明治天皇のお耳に達すると、天皇は、敵ながらステッセルが、自分の国のために尽した苦労に御同情あそばされ、軍人としての名誉を保たせるようにと、おっしゃったので、乃木司令官は、このお情あるお言葉を敵に伝え、5日、水師営に於いてステッセルと会見して、開城の約束を定めた。

水師営の会見
水師営会見所中庭に於ける乃木軍司令官とステッセル将軍及び其幕僚

こうして、155日間、旅順はやっと陥落したが、この戦いで、乃木司令官は、長男勝典に次いで次男保典も失い、その悲しみは、云いようもない程であったろう。

乃木勝典と乃木保典
戦死した乃木希典の長男勝典(左)と次男保典(右)

しかし、乃木司令官は、一言もそのことを口にせず、ただただ戦死した部下のことで、心を悩ませていた。二百三高地が陥落した時、「これで申し訳がたつ……」とつぶやくのを聞いた幕僚たちは、その言葉に深く感動したのである。

(記事はパンフレットより抜粋)

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