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アリアズナ

アリアズナの面影

画像の女性は、広瀬武夫が義姉春江への絵葉書で類似的に示した恋人アリアズナの面影です。

広瀬武夫がロシア駐在武官であった頃、彼に対して好意をもち、かつそれを持続させた人のなかに、ロシア海軍省水路部長子爵ウラジミール・コヴァレフスキー少将がいた。

少将はとくに広瀬を自邸にしばしば招待し、一家をあげて彼のファンになっていた。同家には三人の娘がおり、長女はマリアは18歳、そして次女アリアズナはまだ16歳であった。

これより広瀬は、しばしばコヴァレフスキー家を訪ねるが、長女マリアはおとなしく、別にあらたまったことを広瀬に言わなかったが、広瀬をよく音楽会にさそったり、舞踏会の時に相手になってくれたりもした。アリアズナはまだ子供のように邪気のない快活で明るい娘だった。

1901年(明治34年)1月末、コヴァレフスキー邸でロシアの上級海軍将校たちの晩餐会が開かれた。
その会に広瀬も招かれた。コヴァレフスキーがはじめ広瀬を列席の人々に紹介する時、

「このヒロセ君という海軍将校は武道にかけては達人です。何一つできぬことはありません。」

と誉めておいたものだから、食後、別室でくつろいだ時、一人のロシア将官が、

「日本には柔術というものがあって、日本人なら誰でもやれるということですが、あなたも、もちろんご存知でしょうと話しかけた。」

主人がそれをひきとって、

「できるともできるとも、この方は柔術のベテランだよ。一つここでやっていただいてはどうだろう」

とはかった。たちまち賛成の拍手が起り、一人の大男の少将が右手を差し出して「さあやってごらんなさい」とかまえたので、

「日本の柔術はそんなものではない」

と、広瀬はその大男を投げ飛ばしてみせた。

これを片隅でじっと見ていた女性がいた。アリアズナであった。彼女はすでに18歳になっていた。
背はあまり高くない。豊頬で、スラブ人好みの愛嬌のあるかわいい顔をしている。肌は白い。目はキラキラかがやく褐色、髪は亜麻色である。気立ては明るい。

貴族の令嬢らしく、厳重なしつけを受けて育った。はじめ家庭教師について、知識をさずけられた。うちこむたちだから、好きになった学課はよく勉強した。それからエカテリーナ女帝がつくった貴族女学校にかよった。ここは女生徒をいずれは家庭に入るものとして、しつけや礼法をやかましくいう。もちろん中等程度の学業もさずける。彼女はここでも優秀な成績をあげた。仲間の娘たちのうちには、はっきりしない女もいる。おろかな女もいる。気性がはげしいから、アリアズナはそういうタイプが大嫌いだった。

アリアズナには、セルゲイという海軍少尉の兄がいた。兄の縁故で彼女のまわりには、貴族出身のロシア海軍の若い士官が時々遊びに来ていた。その中でもドミートリ・ミハイロフ大尉ははっきりと好意を示して、彼女の心を獲ようとしていた。しかし、アリアズナは哲学や学問を論じたり、社交を好む軟弱な彼らに物足りなさを感じていた。そこに広瀬の勇ましさが目に入ったのである。彼女は広瀬に強い好意を寄せるようになった。

アリアズナは親に内緒で広瀬の部屋を訪れるようになるが、当の広瀬はアリアズナを兄が妹をいたわるような気持ちで接していた。ある日、広瀬は、ミハイロフ大尉から、アリアズナが広瀬に好意を寄せていることを知らされる。はじめは大いに動揺するが、次第に広瀬も彼女に心を寄せていった。

しかし、突然に広瀬に帰朝の命令が下る。祖国日本はロシアを仮想敵国としてみなしたのだった。仮に二人が結ばれても、戦争により二人は引き裂かれることになる。日本帝国海軍軍人として広瀬武夫は、悩んだ末にアリアズナとの別れを決心する。

1902年(明治35年)1月、サンクト・ペテルブルグを出立する日、アリアズナはかねて用意していた小型の銀側時計を、広瀬に渡す。時計にはアリアズナのの文字が刻まれており、またAmor(愛)の意味も含んでいた。時計の鎖には彼女の写真を入れたロケットもついていた。再び遭うことを誓った二人だが、これが最後の別れとなった。1904年(明治37年)3月27日、第二回旅順港閉塞作戦で広瀬は戦死する。

アリアズナの恋文

明治35年7月19日に義姉春江に宛てたアリアズナの恋文。(原文を広瀬自身が訳す)

深く敬い参らする武夫さん!
近頃弥久しく堪へ難き迄に待ち兼候后、私の手紙に対する御前様の御答を受取り申候。御前様より御手紙や、御写真や、御画羽書に向つて、私は御前様に大なる感謝を捧げ参らせ候。此等は皆私をして、大に大に喜悦せしめしものにて、私は御前様の私を御忘なきことを見申候。唯遺憾に思はれ候は、御前様が御自身に付て御認め被下しことの、斯くも僅なることに有之候。コハ御前様の為し遊され、御思案被遊、而て私の為には大なる面白味を呈することを、御予想遊され度と思ふことを、意味するものに有之候。(御前様の近時に就て知ることは、私に大なる快感を与ふることを想像あれ、と云ふ義と被存候。)
(中略)
私が兄なる「トーリヤ」(海軍士官なり)も、終に東より、しかも日本より、驚嘆をして帰着仕候が、日本こそ○○○○○○○邦にして、真の極楽浄土とはこれなんと、語り居申候。私は毫も日本が秀絶なると云ふことには、敢て疑を挿み不申候!!!
御前様は私が最も燃ゆる(燃ゆるの義迄の意味なし。所謂字義のみを云へば、いきいき○○○○○○○○○○如き注意を以て、御前様に管にするものの総てに嘱目すると云ふことを、御記憶可被下候。此訳は原○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○(武夫の近状、特に勤務上に付て○○○○○○○○○○○○○○○○自身の試験は昨日を以て終り、抜群の好成績を得たることを報ぜり。)
私共一統は、しばしば御前様を思ひ出し候。而て斯くも私共が御前様を見参をせたるに慣れたること故、御前様が私共と一処に在ざることをかなしみ申候。特に私に於ては!
先は心底より御前様に万福(都て宜しかれと云ふ字義)を!深く敬ひ参らする武夫さん!
御前様の御手を取り申候。
御前様に私の誠実なる殷懃を。
(中略)
私の撮影仕候砌は、御前様に其写真を贈り参らすべく候。
尚ほ再び茲に万福を。

アリアズナ、コワリスカヤ

コ氏令嬢より昨今一通の信書を手に申し候ため、先づその荒増を訳し、武夫のを御一覧に供し申候。(中略)邦文としては、余程可笑しきものと破存候。

*○○○○の箇所はは解読不能。Nとは海軍用俗語でノロケを意味する。

余話

広瀬武夫とアリアズナの恋物語については、広瀬の死後も暫くは世に知られていなかった。

広瀬と同時期にペテルブルグに留学していた大尉加藤寛治は広瀬とアリアズナの交際を知り尽くしていて、後の1924年(大正13年)、加藤が第二艦隊司令長官として旗艦「金剛」に座乗し、大阪湾から伊勢湾にむかって航海中、同乗していた大阪朝日新聞の記者大江素天に、「もう話してもいいころだろう」といって、克明に語った。その内容が、同紙4月30日から5日間にわたって連載され世に知られることとなった。

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